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王子サマ考
2007-02-06 Tue 09:11
古今東西、神話・童話・実人生を問わず、「王子様とお姫様」は定番の構図だった。
男はかっちょいい王子様を目指し、女はかわいいお姫様を目指すことが、時代や文化を問わず、人の生きるべき道のように思われて来た。
男は守るべきお姫様を得て人生の充実を感じ、女は王子様に守られて人生の幸福を感じる。
個人的意見はともかく、それが何千年にも渡って続いてきたシステムであるのは確かだ。

こんな事を言い出すのも、前にチラリズムの項で取り上げたアニメ「少女革命ウテナ」があまりに真剣に作り込まれた作品で、総力を挙げてこの命題に挑んでいたからだ。「ウテナ」は”王子様とお姫様”をメインテーマにしていながら、全ての漫画・アニメ作品のベースにあるその構図を見事に切り崩すべく生まれた作品だった。

10年前のアニメ作品について語っても見る人は少ないだろうが、私自身が今や数少ないウテナサイトの考察を読んで非常に感銘を受けたので、私もその感銘を書き残すべきだと思った。「誰が読んでも分かるブログを」という自分の主義に反するが、ご容赦願いたい。

作品の内容に触れるので、初めて「続きを読む」なんて使ってみる。

「少女革命ウテナ」は、王子様な男と、お姫様な女と、王子様とお姫様の間で揺れ動く少女という異色の3人を主人公として、わざといびつな物語世界を作り上げた。

主人公のウテナは、幼い頃に薔薇の花嫁(=女の義務に服する女)として苦しむアンシーの姿を見せられて、自分が王子様になって彼女を解放するのだと決意して生きて来た。それと同時に、それを見せてウテナに生きる目的を与えてくれた王子様への恋心も抱いている。

鳳学園に来て、ウテナはアンシーというお姫様を得て自分の理想だった王子様の生き方が実現すると同時に、王子様を絵にしたような暁生に惹かれて彼のお姫様になって守られたいとも思う。ここでウテナは、同時に実現不可能な自己矛盾に陥り、彼女は揺れ動いたまま物語が進む。

物語の結末近くで、ウテナがどちらになるかを選ばなければいけなくなった時、どちらの選択にも困難がつきまとうことがわかる。ウテナが王子様になることを選んだ場合、彼女は恋心を抱く本物の王子様である暁生と戦わなければならず、その上に暁生のお姫様であるアンシーは敵に回る。しかし、もしウテナがお姫様になることを選んだ場合、お姫様ではお姫様を守れず、ウテナはアンシーを救うという誓いを果たせない。

それでもウテナは志を守るべく王子様となることを選択し、暁生と剣を交える。そして、ウテナが最も王子様らしくアンシーをかばって立った時、守ろうとした本人であるアンシーに後ろから刺される。それは、ウテナが本気でアンシーの王子様になることを選んだ時から生じた必然の結果だった。「現実」と言い換え可能なアンシーがウテナに与えた深い傷は、世間が押し付ける”身の程”を越えて気高い志を貫こうとしたウテナへの現実からの妨害に他ならない。「女の身で誰かを守ろうとする王子様になんかなれるもんか。女は守られていればいいんだ」という現実である。

倒れたウテナを、”現実”であるアンシーと”大人”である暁生は、「だから身の程を弁えろ言ったのに」とばかりに冷やかな目で見下ろす。しかしウテナのウテナたる点は、そこで”あきらめ”をはねのけて傷を負いながらも立ち上がったことにあった。現実に深く身を沈め、あきらめながら生きているアンシーを解放するには、現実によって与えられた傷を克服してなお立ち上がれる強さがあることを、ウテナが身をもって示さなくてはならなかった。

しかしこの作品の真のテーマが「王子様とお姫様の構図を破壊すること」にある以上、そこでウテナとアンシーが手を取り合って幸せになった、と終わらせるわけにはいかない。もしウテナがそこで王子様になることに成功してしまったら、アンシーにとっては暁生がウテナに変わっただけで、世界は何も革命されない。だから、最終回でウテナは「王子様ごっこで終わってごめんね…」とか細い声で謝りながら、傷だらけでぼろぼろのまま作品から消えてしまう。現実に抗うことは可能だけれど、その分の傷は負わなければならない。

ウテナは消え、学園の誰もが彼女を忘れ去ってしまったが、アンシーは薔薇の花嫁=お姫様として生きることから解放された。彼女の世界はウテナによって革命されたのだ。ウテナとは「台」、そして「花のがく」という意味。その名前の通り、ウテナは花のがくとしてアンシーが花開くのを支え、そして傷を負って舞台から消え去った。オープニングの歌のままに、ウテナは「潔くカッコよく生き」たのだった。

最終回が終わった後、「この薔薇があなたにも届きますように―スタッフ一同」という画面が出たという。封建制でも家長制でもなくなった今の時代、頼るべき自分の王子様は自分なんだよ、とこの作品は女性たちに語りかけたのではないだろうか。

(了)

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コメント
ほんと深いよね、このアニメは。
(って多分コメントするだろうと思われているコトが容易に分かるww)

私はアニメよりマンガの方が記憶に残っているけれど
(だから多分 結末がちょっと違うんじゃないかな)
ウテナが表す性の葛藤もそうだけど、アンシーの
魔性の部分や、ディオスの光と影の二面性とか・・・
語りつくせないくらい作り込んでいるよね。
人間の根本を表す作品だと思う。

あたしも頼るべき人間は自分で、そして内なる世界に
閉じこもったままでは 何も変化しないんだよって
事が このアニメは言いたかったんじゃないかなーって思う。
2007-02-07 Wed 21:48 URL | めぇ #-[ 内容変更]
こんなマイナーでむしろ真剣に語りすぎて引かれそうな記事にコメントをくれた君に感謝。

自分が放映終了後10年も経ってからこの作品を知って、ウテナのサイトや考察を探すのに非常に苦労したから、これからもいるかも知れない私みたいな人のために、考えた事を書いておこうと思ったんだ。

アンシーの魔性さは見ていてかなり怖いけど、アニメではそれは彼女が現実に縛られているせい、という事になっている。土壇場で裏切られて刺されてもまだアンシーを解放すべく立ち上がるウテナにはもう「愛じゃよ、愛」と感服、いや感動するばかりだよ(笑)。
アニメ版後半の、正装で絡み合い(微妙にフレームアウトしつつ)キスする二人のED映像は必見です。最初からこのEDにしてたら大変だったよ(汗)。

ディオスの堕落も「ああなっちゃったのは仕方なかったんだ」という感じの描写でもあって、そう思うとアニメは随分と甘めというか同情的な描き方でもあったなと思う。「普通はこうなっちゃうもんじゃん?ホラ、君も俺と寝たし(爆)」「それでも私は…っ!」みたいな話でした。漫画では確か暁生とアンシーは人外の存在だったよな…。

「誰にもよっかからないでやっていくことは
信用するなとか友情捨てろってことじゃなくて
クジがはずれてもグチらず前に進めるかどうかだろう」

自分を信じて頼りながら、ちゃんと外の世界と向かい合うっていうのは、要はそういうことなんだろうな。
B'zもウテナも好きだー!!(アメリカにいるくせに日本文化を謳歌しすぎ)


2007-02-08 Thu 05:14 URL | ゆにん #F0Z38fwo[ 内容変更]
うん、確か暁生とアンシーとディオスってもはや
神みたいなもんだった・・・気がする。マンガではww

今気付いたけどウテナの監督さんてセーラームーンと同じなんだね~。
しかもポストエヴァンゲリオンと呼ばれていたんだ・・・w
どっちも好きだな(やめれアニヲタめ)
2007-02-08 Thu 09:55 URL | めぇ #-[ 内容変更]
趣味が広いのはいいコトさ☆
他のサイトでもウテナとエヴァの比較はされてたよ。
エヴァは自分の中の世界にまた閉じこもって終わるけど、ウテナは外へ向かう一歩を踏み出して爽やかに終わるって。エヴァは未見なので何とも言えないが、どっちもセカイ系(主人公の自己革命が世界を変えたり救ったりする話)と呼ばれてるらしいね、アニメ分類学的に。そういう生真面目な分類や考察などにおける、オタクの学術的価値にも注目してほしいものだ。

2007-02-08 Thu 16:34 URL | ゆにん #F0Z38fwo[ 内容変更]
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