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敦子の憂い
2009-07-07 Tue 06:48
 「現実はそんな綺麗な形に結実し得ない。現実の世界は不安定で非合理でいい加減なものなのだ。(中略)結局敦子は、非経験的な理想的世界観に強い憧憬を抱いている――経験的な社会からただ顔を背けて生きている――に過ぎないのだろう。
 そう思うと、ほんの少し――本当にほんの少しだけ――敦子は遣り切れなくなった。杓子定規で面白みのない女だと、爪の先だけでそう思った。そしてそんな時でも、頭の上には妙に醒めた別の自分が居て、この女本気で思っている訳でもない癖に――などと云い乍ら冷笑しているような気がして、余計に厭になった。」

京極夏彦 『塗仏の宴~宴の支度~』 345ページ


小説の作者によって、登場人物の心理描写に費やされる文章の量には大きな差があると思う。それは作品のボリュームやページ数に大抵比例するが、本の厚さとは別に描写の濃さの違いみたいなものがある。かつてスティーブ・キングを愛読していた私は、赤川次郎作品を読んで、ページの空白部分の多さとその描写のあっさりさにびっくりした。(でもテンポの良いミステリーとしては好き。)そういう部分の「こってりさ」は小説作品の好き嫌いを決める一つの基準になるし、それでいくと私は結構くどいタイプのものをよく読む。

冒頭に長々と書き出した京極堂の妹・中禅寺敦子の下りは、京極夏彦作品のその「こってりさ」を体現していると思う。ただ「敦子は遣り切れなくなった」とその現象だけを書いて次に進むことだってできた所を、理由と背景と現状を交えて敦子のもやもやとした心情を事細かに解説している。万事がこの調子なので、本がレンガのような厚みになるのも無理はない。

京極夏彦作品は、「濃厚とんこつ中細ちぢれ麺、20人前入りまーす!」といったところだが、それを何だかんだ言っておいしく食べさせてしまうところに作者のすごさがあると思う。



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