なぜ書くのか。それは、人に言葉があり、私に心があるから。
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言葉と世界
2009-09-28 Mon 05:44

人がこの世界に存在する(生きる)ことで、一次的にまず得るものは経験である。暑い寒い、固い柔らかいなどの物理的な感覚であり、それは頭で考える前にただ流れ込んでくる。そこまでが「自分の世界」だ。

「自分の世界」の範疇を超えようとすれば、つまり自分以外の他者にその中身を伝えようとするならば、言葉が必要になる。言葉を使って、それをまったく経験したことがないかもしれない他者にその経験的な感覚を説明するという、「自分の世界」の中だけであれば必要のなかった行為に挑むのだ。自分の経験を他者により正確に伝えようとして言語が発達し、意思の疎通によって人は先人たちの積み重ねてきた経験という巨人の肩に立って、遥か遠くまで見渡せる能力を手に入れた。

しかし残念ながら、言葉は完全ではない。言葉が造り上げる非経験的な観念は、物理的な感覚によって築かれた経験を、一片ももらさずにすくい上げて外の世界に持ち出すことはできないのだ。言葉にされた時点で、「自分の世界」という海を自由に泳いでいた”経験”という名のシーラカンスは、釣り上げられて「外の世界」という地上の博物館に飾られる剥製と化す。それは確かにシーラカンスだったものだが、深海を悠然と泳いでいた頃の姿とは似ても似つかない。

自分の中にある経験は、(その中に留まる限りは)言葉にする必要もなければ、そもそも言葉にしようとしても決して完全には言葉にならない。言葉にした瞬間にその本質は失われてしまうが、言葉を使わずには外の世界と交わることができないというジレンマに人は立たされている。だから、この世界は常に不完全なのである。










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<<Happiness | 紅炉一点雪 | 熊野の海>>
コメント
これそーとキタね。よく上手い事いった。時に、経験は言語の上層構造に位置するともいえると思う。だが時に、人の意識をなす補完関係にあるとも思うよ。例えば我々が、対人関係やその他様々な問題に直面した時、言語により、精神的、理論的に対策を用意したとしても、それを物的世界で実行し、経験に裏打ちされるまで、その精神世界から生まれでたものは、無脊椎動物のごとく、その海を漂い続けるときがあるように思う。その意味で、自分は、しばしば積極的に経験を求める衝動にかられるよ。
2009-10-27 Tue 13:40 URL | tsuyoshi #-[ 内容変更]
tsuyoshiさんへ

うん、わかるわかる。
概念(言語)は物理的経験の上にあるようでいて、
時に経験は概念をいとも簡単に打ち砕くよね。
また、経験による裏付けなくしてはそれは想像の域を超えず、
自分で経験して初めてその本当の意味を知るのだと思う。
というわけで、私ももっと経験を求めるとするよ。

2009-10-29 Thu 00:13 URL | ゆにん #F0Z38fwo[ 内容変更]
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