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『トーマ』の小説版評
2010-01-09 Sat 09:06
『トーマの心臓』の原作を読んだ後、さっそく森博嗣の小説版を買った。森博嗣の本は1冊ぐらいしか読んだことがなかったが、“ミステリー界において、京極夏彦を文系の華とするならば森博嗣は理系の雄”という何かの評論がやたらと頭に残っている。京極夏彦の文章は情報量とともに濃厚の一言に尽きるが、森博嗣の文章は透明で硬質な感じ。さて、それによって小説化された『トーマの心臓』である。

同じキャラクターで同じストーリーだが、作品のテーマとしてはかなり違ったものになっているという印象。何といっても原作のレビューで私が大々的に説いた“キリスト教精神”の要素がほとんどなくなり、ユーリが遍在する神の愛(アガペー)に知って救われるというラストにはなっていない。

それが端的に表れているのが、ユーリが「子供の頃からなりたかったから」という理由で神父になるために学校をやめるとオスカーに話すシーン(P,173)。困っている人、悩んでいる人の力になりたい、とユーリは話す。原作での「神の愛を知って、もう一度神と向き合うため」という理由とは根本的に違う。また、ユーリが「我々が間違いだらけだなんてことはごく当然のことで、神様はとうにご存じだし、すべてを既に許されている」とオスカーに話すシーン(P,243)があるが、ユーリが紆余曲折を経てやっと悟るべきそのことをさらっと、本当にさらっと「今日のみそ汁の具はワカメだよ」のごとく話してしまうのだ。

森博嗣は自ら「作家·森博嗣が創作者として崇拝する唯一の存在」と認めるほどの大の萩尾望都ファンで、愛犬の名前は「都馬(とうま)」というらしい。この小説版を読んで、同じ作品を愛しながらも森博嗣が『トーマの心臓』に惚れ込んだ部分が自分とは大きく違ったのを感じた。



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