なぜ書くのか。それは、人に言葉があり、私に心があるから。
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外国にいる意味
2011-01-12 Wed 20:57
以前に引用した西尾幹二氏の本から。若い頃(1960年代)にヨーロッパを旅して回っていた西尾氏は、ドイツのライン河の船下りをしていた時に、実直そうな初老のドイツ人夫婦と知り合う。定年退職の記念で旅に出た彼らは日本からの旅人に、「私たちは外国はおろか、ドイツ国内も旅したことがなかったのですよ。あなたはパリにもアムステルダムにも行ったのね。羨ましいわ。私も一度パリへ行ってみたいわ」と、憧れるような眼差しで語った。これを聞いた西尾氏は驚く。日本人である自分のパリ体験やアムステルダム見聞を羨望する“ヨーロッパ人”がいる、ということが俄かには信じられなかったのだ。

「この夫妻の言葉は、私が異国を体験していることの持つ意味を、根底から否定する力を持つように思えた。なぜなら、人間は自分の生まれ故郷、自分の育った村や町のなかで生涯を送って疑いを持たないことが一番自然であり、確実であり、かつ内容的に最も豊穣で幸福だという現実を、ドイツ人夫妻は私の目の前で身体全体で表現していたからである。私はアジア人のくせに夫妻よりたくさんのヨーロッパを見ている自分の位置に、(中略)旅の経験とか異文化体験といったものの底の浅さを意識せざるを得なかった。」
(「学生気質の変貌」/『新潮』90年9月号掲載)

私も同じ経験をしたことがある。留学中、冬休みはボストンとニューヨークに行っていたという話をすると、大学のバイト先のボス(50代のアメリカ人)は「どっちも行ったことないね」と肩をすくめ、私も驚いた反応を返したのだった。

それよりも、この経験から西尾氏が導き出した意見が、(日本という海外で育ち今なおそこに暮らす)私の心の奥にあった気持ちをストレートに射抜いた。その通りだ、「生まれ育った場所で生涯を送って疑いを持たないことが最も幸福」に違いないのだ。それは自分にとってもはや二度と手に入らないものだから、ものすごく眩しい宝物にうつる。どんなに広い見聞も、その意識すらされない幸福の前では浅はかなものとなる。それを思うと、道しるべなき荒野をあてなく歩いているような気分になるのである。




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