なぜ書くのか。それは、人に言葉があり、私に心があるから。
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自己肯定
2007-08-14 Tue 17:14
人が何のために生きているかと言ったら、自己肯定のためだと思う。
それは、良くも悪くも色々な方向に人を突き動かす原動力だ。

自己肯定というのは、平たく言えば「自分を好きになれること」や「自分が正しいと思えること」だ。何かをした時に、「今の自分はカッコ良かったなぁ」と思うのは気持ちがいい。

世界はすごく多様で、各人が(外見や内面を問わず)その人に属する様々なものを抱えてその流れの中にいると、一つの事で自分を誇らしく思ったり、または別の事で自分をみじめに感じたりする。また、同じ事柄がある人にとっては喜ぶべき事で、別の人にとってはそうじゃなかったりする。誰だってみじめな気分になるのは嫌だ。だから、その事柄において自己肯定するべく奮闘する。自分で自分を納得させるための戦いが始まるのだ。

自己肯定は、自分の経験から生まれる自信だったり、他者を見下す事で作られる優越感だったり、あるいは現実世界を超越した何かを悟る事で得られる安心感だったりと様々である。

経験則から自分を認められる理由を見出そうとしたり、他人から付けてもらうラベルに拠り所を求めたり、自分で理論を構築して合理化を図るなんて事は、誰もがやっている事だろう。人が生きている間、それしかしていないんじゃないだろうかと思えるくらいだ。

それなのに、そんな必死の思いで頑張っても100%の自己肯定が得られる事、人が自分の全てに本当に満足する事はきっとない。不安だけはいつでもあるのに、稀に訪れる満足は一瞬で去ってしまう。全てに満足してしまったら、それ以上生き続ける理由さえもなくなってしまうからか。

生物学的に"身体"の最も基本的な存在理由がより多くの子孫を残す事だとしたら、
"精神"(こころ)のそれはより多くの自己肯定を得る事だ。

そんな些細で巨大な理由のために、精神を持つヒトは一生あがく運命にあるのだ。


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<<海外オンチ | 紅炉一点雪 | サンフラの食>>
コメント
 ゆにんさんは、人間という存在について、時々お書きになりますね。人類の歩みや歴史やご自身の心の動きなどから、推測しながら、何らかの結論を導き出そうとしておられるような気がします。私も若い頃は、そのようなことを良く考えました。夜中に屋根に上って星空を見ながら、空に向かって多くの疑問を投げかけたり、自分の質問を整理したりしたものです。人間について分かっていることと、分かっていないことを良く考えていました。もっとも私が一番最初に人生について考えたのは、小学校の卒業式の日でした。卒業式では泣いている友達もいました。そんな場面で泣いている友人たちは少し大人びて見えました。でも、その学校は全員同じ中学校に進学しますので、友人との分かれはなかったのです。ですから、大人びた涙のムードに加わりたかったものの、実際に泣く事は出来ませんでした。むしろほかの小学校から来る新しい友達が出来るのは確実でしたから、進学の楽しみがありました。どんな人と友達になるのかなと考えたときふと、中学の3年が終ったら、小学校時代の友人たちや新しい友達との別れの時が来て、また高校に進学して新しい友達が出来て卒業してお別れして、その後大学に行くかどうかはともかく、やがて結婚して子供を育てて、そして・・・死んでいくのが人生だと気が付きました。そこに向かって初めて一区切りをつけたのだと感じ、ひどく空しく思ったのを覚えています。それ以後、人生のイベントのたびに、死に向かうレール上にある一駅を通過したという思いが付いて来ました。納得できたわけではありませんが、それが人間の生きる道なら、それで精一杯生きるしかないと思っていましたから、人生に余分な重荷を持ち込まないように、若い時代から、比較的慎重に生きていこうと考えていたように思います。このように幼い頃から、『人生』と言うものを、まじめに関心を持って見つめてきたので、若い方が人生について考えていらっしゃるのが知ると、ついあの頃に戻って反応したくなってしまいます。屋根の上で「ねえ、ゆにん。ゆにんは人生には何か目的があると思う? ゴーギャンは『人はどこから来てどこへ行くのか、われわれは何者なのか』という絵を描いたけれど、そのテーマはあなたの中にはない? 人間には何らかの存在理由があると思う? 動物にはあると思う? 」などと世が明けるまで語り合えただろうと思います。ゆにんさんは屋根の上で星空を見ながら、どのように答えられるでしょうね。
2007-08-16 Thu 10:03 URL | mega #JalddpaA[ 内容変更]
megaさんへ
この記事に照らし合わせて言えば、私は主に経験則から何かを見出そうとする類の人間だと思います。その経験則にはもちろん自身の経験もありますが、ニュースで見聞きする現在の事や過去である歴史も含みます。人生観というのは人生経験に大きく左右されるものですよね。人は自分自身が歩いてきた道に拠ってしか、他人にアドバイスをしたり決断を下したりできません。それが、「自分」というものの限界なのでしょう。

アメリカで知り合ったある方から、「真理とはドーナツの穴のようなものだ」と聞いてひどく感心しました。観測可能な「真実」に取り囲まれた穴の部分が観測不可能な「真理」であるという例えです。それは確かに存在するけれども、何かで囲われて初めて姿を現す。だから、私たちにはその周りの部分である事実を見て、後は自分で考えるしかない。

人生の目的ですか。私は、人生にあまり目的を求めるべきではないと思います。どこに行くのかを、常に明確にする必要はないとも言えます。ゴールを一つに決めてしまうと、それを達成できなかった時や達成しても「想像していたのと違う」という不満を抱くのが関の山ですが、道すがら精一杯やってきたのなら、どこに行き着いても「これはこれで良かったな」と思えると思うのです。

俗にこういう思想を「根性なし」あるいは「いい加減」と言うのかもしれませんが、私の世代はゴーギャンのように革命と戦争を体験する事もなく、また鉄の意志と団結を以ってこの世界に新しい秩序を打ち立てるべく闘争する必要もないのです。東大安田講堂の激戦が繰り返される事は、もうきっとないでしょう。だから人間の存在理由とは、各々の個人がとりあえず毎日を精一杯生きながら、ゆっくり考えていけばいいのではないでしょうか。そんなものはないさと嘯くもよし、ぼんやりと感じるだけでもよし。

電車が止まっている時に「早く発車しろ」と思っても電車は動かない。走り出した電車に「止まれ」と念じても電車は止まらない。人生もそのようにままならないものですが、そのままならなさがなければ逆に生きられないのだろうなと思います。

2007-08-17 Fri 07:43 URL | ゆにん #F0Z38fwo[ 内容変更]
人はやはり、誰かと語り合うときに、相手の言葉を自分の耳で聞き、自分の目で見るのですね。つまり・・自分の心の傾向に従って読み取ってしまうということです。私が若い頃に持った疑問、人生について、本当に知りたいと思ったことを、同じようにゆにんさんも探求しておられるのかと思いました。でも、違うのですね。ゆにんさんは、必要な程度にはもうすでに理解したという意味で、記事をお書きになったということですね。

 私は若い時代に、公正についてよく考えました。身の回りに身体的ハンディを負っている人、母親に蒸発された友人たちがいて、その人たちが自分の責任で生じたのではない荷を負わなければならないことが子供ながらに納得できなかったからです。少しずつ成長し、世界に戦争や紛争があることを知り、大人の知恵に疑問を持ち始めました。『みんな平和のほうがいいのじゃないの?、だったらどうして戦争するの?』と先生に問いかけていました。納得のいく答えをもらったことはありませんでしたが。
 学生闘争の時代背景が何らかの影響を及ぼし、人生について考えさせ多くの疑問を持たせたとするのなら、私は確かにその時代に生きたことを感謝します。人は質問しながら成長する生き物だからです。仏陀のようにその答え探しの旅に出たわけではありませんが、若者らしく楽しく生きている暮らしの中に、ふとその答えが零れ落ちることがあり、そのたび自分の中の質問と照らし合わせ、何かを知っていったからです。もちろん、質問攻めにした挙句のことですけれどね。
 何でも学ぶことが趣味なので、宇宙のことや生物のことや地球のさまざまな循環システムなど、全くの興味だけで、いろいろ調べてきました。(専業主婦は時間がたっぷりありますのでね。それに夫は知りたがりの私のスポンサーとなってくれ辞書や辞典類をほぼ何でも買ってくれますので)
 もちろん、宗教についても調べました。とかく宗教は人々の中で話題としてはタブーなものになっていますが、人生や生きる意味などの答えのありかとしては、一番『クサイ』場所であるには違いないと思ったからです。変な宗教に関わってしまう心配はありません。質問攻めという癖が、むしろ宗教側を退散させてしまうからです。(ちっとも攻撃なんてしておらず、素朴な疑問を投げかけるだけなのですが・・・)
 ただ、その探求で興味深いことが分かりました。仏陀やマホメットやイエス・キリストについての生涯をかなり深く調べてみると、イエス・キリストだけは他者と全く違うのです。キリストには、何か分からないことを求めて捜し歩くというところが、全く、ないのです。彼は、はじめから、すべてを知っており、自分で何かを悟ったというのとは違うのです。他者は確かにドーナツ型の真理を教えます。でも、彼は、そのドーナツの空洞を埋める真理を知っているのです。まさにキリストの言葉の中に、私は道であり、真理であり、命であるという言葉がありました。イエス・キリストは100パーセント自己肯定が出来る人物です。それでいて、高慢ではない・・。ガンジーがキリストとその教えを高く評価した言葉を述べたのは有名ですが、ヒンズー教徒(しかも大聖)をしてそういわせるものは何かということが、福音書を徹底的に読んで(自分で4福音書の対観表まで作り)理解できたときに、ガンジーと感動を分かち合いたい衝動に駆られました。聖書は人生の中で一度は読まなければならないと、なぜ思っていたのかは、よく分かりませんが、ともかくそう思っていて(きっと誰かが話しているのを聞いたのかもしれませんね。)小学生のときにトライしましたが、文語訳で簡単に挫折、中学のときに文庫本で福音書を読み、それ以後愛読書になりましたが、クリスチャンでもない私の聖書の福音書の部分が何度も開かれてやわらかくなっているのを見たクリスチャンの女性が絶句したときの表情が忘れられません。ちょうど20代半ば・・・もう四半世紀前のことです。
 たくさん書いてしまいました。ごめんなさい、私のことばっかり。日本はとても暑いですよ。40度を超えたところもあります。熱中症で亡くなる方もいらっしゃいます。地震も頻発しています。高速道路では大きな事故・・・。良いニュースはなかなか聞けません。でも、ここでお話しながら、心配のなかった若い時代のことを甘く思い出せました。ありがとう。アメリカでも事故や災害がありますね。気をつけてお過ごしください。
2007-08-17 Fri 11:01 URL | mega #JalddpaA[ 内容変更]
megaさんへ
探求はし続けていますよ。私がいくら解った気になった所で、解り尽くすなんて事は絶対にないでしょう。最大の努力を尽くして自分が認知できる限りの事を解ったとしても、それは脳の10%ぐらいでしかないのですから。人間が生涯に使うのはせいぜい脳の10~20%ぐらいだと知った時に妙に吹っ切れた気分になったものです。

私も中高六年間プロテスタントの学校に通っていたので、毎週礼拝をし、説教を聴き、毎朝その日の日直が選んだ箇所の聖書を読み、賛美歌を歌っていました。私が好きだったのは旧約聖書の「箴言」と「コレへトの言葉」という、長い長い「詩篇」の後にあるとても短い部分です。箴言はその名の通りことわざ集のようなもので、コレへトの言葉は日本語で言う「無常観」を表したような内容なんですが、とても面白いと思いました。信じれば救われる的な前向きさを形にしたような宗教聖典の中で、これほど「人生は空しい」と悲観あるいは達観し、それによる快楽主義さえ覗くような内容が新鮮だったのです。

歴史上のキリストが何者だったか、これは非常に興味があります。彼は敬虔な一ユダヤ教徒だっただけで、キリスト教を打ち立てるつもりはさらさらなかったというのも真実かもしれません。私はイエスが十字架上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と一度だけ弱音を吐く場面が印象的です。聖書が描く彼は完全無欠すぎて、倫理的手本にはなれど感情移入をするのが難しいのですが、この場面でやっと彼は人間らしさを見せると思ったのです。

歴史的スパンで言えば彼ほどの有名人は前にも後にもいないと思いますが、キリスト教が救った人間の数とキリスト教に殺された人間の数はどちらが多いのだろうなと思う事もあります。キリスト教の「理」ではなくて、「力」に仕えて多くの命を奪った人間が歴史上にはあまりに多くいました。2000年間の伝言ゲームの末に、本当のキリストの言葉は少しでも伝わっているのだろうかと不思議に思います。

2007-08-19 Sun 07:34 URL | ゆにん #F0Z38fwo[ 内容変更]
箴言、コヘレトの言葉(伝道の書)がお好きとは、なかなか手ごたえのある若者ですね。うれしくなります。箴言はちょうど31章ありますので、31日ある月に毎日一章ずつ読む計画を立てて、読んだときがありました。生活の中で、人間関係や子育てなどでどうしていいか分からなくなるとき、知恵を得るために役に立つと思っています。ことに、31章は、レムエル王の母が王に与えた、有能な妻となるための助言なので、今でも、度々読んで、自己吟味するための鏡として使っています。

コヘレトの言葉(伝道の書)を、そのようにお読みになりましたか。
イスラエルがもっとも反映したと言われる時代に王であったソロモンは、知恵の持ち主でした。シェバの女王がその知恵に言葉も無かったのは有名ですね。また、大きな富を有していました。そのために、多くのことを試みてみることが出来ました。快楽も追求しました。
結果として、2章11節で『空しい』と言う結論を読者のために述べているのですが、『労苦の結果の一つ一つを見て』、空しいと言っているところは見落とせませんね。労苦、つまり、ただ快楽だけを追求したのではなく、文脈から分かるように、園芸や建設や事業もして、富を増やしたりもしています。建設や事業というまじめな点でも、多くの挑戦をして見たわけです。
 でも、彼は知恵を投げ捨てて無分別になってそうしたのではありません。自制をかなぐり捨てたりせずにそうしていますので、自分のしたことを、思慮分別を働かせて正しく評価することが出来ました。
 そして、究極の結論が12章にまとめられています。
 だから何をしろと彼がいったのか・・・そこが興味深いところだと思います。

キリストは、弱音を吐いたのではなく、詩篇22編の1節を成就されたのです。キリストが誰であるかを間違いなく見分けるために、聖書の中には、非常に多くの預言が書かれていました。イエスがご自分で成就することが出来ないものもありました。他の人がイエスに対してすることや、生まれる場所などがそうです。でも、ご自分で成し遂げられるものもありました。「エリ エリ レマ サバクタニ」といわれたこともそうです。そのようにして、聖書に書かれている、どんな小さな預言もすべて成就しました。恐らく(私の記憶が正しければ)最後に成就されたものは、ご自分だけでは出来ないことでした。詩篇69編21節の預言です。それから大声で
満ち足りて、『成し遂げられた!』と叫ばれたのです。イエスは、地上ですべきことのすべてを成し遂げられました。弱弱しくではありません。堂々とです。堂々と『成し遂げられた!』と叫ぶことが出来たのです。

 感情移入に関しては、イエスほど愛に満ちた人はいないと思います。貧しいやもめのわずかな寄付を高く評価し、弟子たちがとがめた女性を擁護し、不道徳な生活をしている女性にも分け隔てなく重要な真理を分かち、律法をおかした病んだ女性を、安心させたり・・・・。
 偏見なく聖書を読むと、イエスの豊かで暖かい感情に、心を温められるに違いありません。また、正しいことを擁護する点で毅然としたイエスに敬意を抱かずにはいられないという人も多いことでしょう。私はイエスについて25年以上調べてきましたが(あなたの人生以上ですね)、聖書からは今も毎日新たな感動を得ています。イエスの魅力は聖書の中からまるで湧き上がる泉のように、私の心を潤わせています。

 ところで・・・私は実はちょっと驚いたのですが・・・中国の方でも、クリスチャンの学校に行かれるのですね。日本で知り合った中国の方は、頭のよい方がとても多く、高い教育がなされている国であることや、映像などから、大きな都市が多いことなど知っています。私が好きな中国映画は、少し前の中国が舞台になっているものが多かったので、最初はカルチャーショックがありました。『祝福』と言う歌が好きで覚えるためにその歌手の番組を見たら、とっても派手な舞台で、「これが・・・今の中国?!」と驚きました。
 それにしても中国の方が、キリスト教系の学校に行かれることも、あるのですね。ちょっと感動しました。今の中国そのものに、興味がわきました。
2007-08-20 Mon 11:06 URL | mega #JalddpaA[ 内容変更]
私が果たして「中国の方」と称されるに値するほど中国人的な部分を持ち合わせているのか、すぐには答えかねますが…。また、表面的な意味以外での「中国人的」なもの(あるいはあらゆる国と文化において)というのが本当に存在するのかという点においても同じですが。

クリスチャンの学校に行っていたというのは客観的な事実といえるかもしれませんが、主観的にはあまりそういう気はしません。家の一番近くにあって二次試験で受かった私立学校が、たまたまプロテスタントの創立者に建てられた学校だったというだけなのです。そこで六年間過ごし、キリスト教に常人以上の親しみは持ちましたが、実際に洗礼を受けて信者になった人は私が知る限りいません。宗教はそれぐらいさり気なくある方が、きっと世界も平和でしょうね。


2007-08-22 Wed 06:48 URL | ゆにん #F0Z38fwo[ 内容変更]
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