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幕末気分
2007-11-21 Wed 16:45
最近、幕末ものを続けて読んだ。
司馬遼太郎「燃えよ剣」上・下と星亮一「会津藩燃ゆ~戊辰の残照」。

「燃えよ剣」については、周囲になぜか多かった新撰組ファンの友人らに口を揃えて薦められたのだが、当時はこんな九百ページ近くもある長編なんて無理だよオイと思った。しかし千数百ページの京極夏彦のレンガ本を読んだ後では恐れるに足らずで、ようやく読んだのだ。人間の判断とは相対的なものである。

同じく司馬さんの「新撰組血風録」はずっと前から読んでいたが、あれは人物ごとの短編なので、幕末の時系列の流れをあまり把握していなかった。だいたい出来事が入り組んでいるし、人物も多くて誰がどっちの陣営かを覚えるのに一苦労だ。今までは薩長同盟から薩摩と長州はひたすら革命派だと思っていたが、八月十八日の政変や禁門の変の時点では会津と薩摩が友藩だったと知ってびっくりした。

「燃えよ剣」では土方歳三のこれでもかと男の美学を体現した生き様を描いているが、多分に司馬さんのフィクションが交えられている事は否めない。土方といえば、フランス軍服姿で撮った有名な写真がある。私だったらその写真を口絵に入れただろうが、司馬さんはそうしなかった。司馬さんの描く土方は現実に生きた土方と必ずしも同じではない、また同じではない所にこそ司馬さんの筆は本領を発揮する。そういうメッセージなのかもしれない。

史実は事実でなければならないが、前にも書いたように事実とは一つに限らない。司馬さんはこの場合、史実に託して彼が土方の生涯から見たロマンを小説に描き出した。だから、そこにフィクションが混じっていても問題はない。薩長土にとって土方は同志の仇、明治の人にとって土方は反革命の悪党。しかし、司馬さんには土方が一つの男の鑑に見えて、小説にそう書いた。今日、土方は“誠を貫いた最後の武士”という評価を得ている。その偶像化には、司馬さんの小説に負うところが大きい。

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